十一月四日の昼過ぎ。
魔道士にとっての聖地であるウァティカヌス聖皇国へとカイトたちを運ぶ大型客船は、航行計画の通りに十一月四日の昼過ぎ、ウァティカヌス聖皇国で唯一大型の船舶が停泊できるスペツィア港へ入港した。 ウァティカヌス聖皇国は「世界最小の国」として知られ、その国土面積はカイトが生活するミズガルズ王国の王都プログレの二百分の一ほどしかないが、魔道士の聖地として永世中立国の立場を貫き独自の発展を遂げた国だった。 歴史的な建造物や景勝地にも恵まれ、温暖で平和な聖皇国は観光立国を成した国でもあり、多くの客船が停泊する聖皇国で唯一の港は賑わいを見せていた。 久々に踏む地面が与える安心感も合わさり、客船を降りたカイトたちの足取りは軽かった。 カイトたちはまず聖皇国内に設置されているミズガルズ王国の公使館へと移動した。 腹だけが肥えた中年太りの公使は、到着したカイトたちを歓迎して深々と頭を下げた。「公使を務めております、スペイドと申します。長旅お疲れ様でございました。聖皇国に滞在の間の諸用は何なりと私へお申し付けください」
「お世話になります」カイトが頭を下げて応じると、スペイドは恐縮の表情を浮かべながら今後の予定を口にした。
「聖皇陛下への謁見は、明後日の午後を予定しております。それまでは、どうぞゆっくりとおくつろぎください」
「はい。そうさせてもらいます」カイトたちはスペイドに案内され、ゆっくり歩いても公使館から十五分ほどの高台にあるホテルへと移動した。
客室まで荷物を運び入れた客船の乗組員に礼を言いながらチップを渡したカイトは、客室の窓を開けて聖皇国の街並みを眺めた。 港町特有の密集した建物はどれも海の青さと調和がとれていた。 活気がある美しい港町だとあらためて感じたカイトが鼻唄まじりに荷ほどきをしていると、程なくして客室のドアをノックする音がした。 カイトがドアを開けると、やや緊張した様子のスペイドが立っていた。「ロザリオ魔道士団の第三席次であられるアルトゥーラ卿が、閣下に面会を求めてこのホテルを訪れております」
スペイドの口からエルヴァの息女であるアルトゥーラの名を聞いたカイトは、スペイドが緊張している理由を察した。
「分かりました……アルトゥーラ卿はどちらに?」
「ロビーでお待ちです」 「では、セリカ卿とステラ卿に声をかけてからロビーに降ります」 「かしこまりました。アルトゥーラ卿には私よりお伝えしておきます」深く頭を下げたスペイドは、足早にロビーへと先に降りた。
カイトは軍服に乱れがないか確認してから、セリカとステラの部屋を順に回ってからロビーへと降りた。 ロビーでカイトたちを待っていたのは、快活さと可憐さが見事に調和する長身の女性だった。 艶やかな黒髪をポニーテールにまとめている女性の瞳の色は、エルヴァと同じ琥珀色だった。 十六歳にして百七十センチを既に越える長身で、すらりと伸びた手足に緋色の地に金糸の刺繍で縁取りされた軍服を身に纏っている。 直立の姿勢から軽く会釈した女性は、カイトをまっすぐに見つめながら口を開いた。「ウァティカヌス聖皇国、ロザリオ魔道士団の第三席次を預かる、アルトゥーラです」
「はじめまして。カイト・アナンです。エルヴァ卿にはお世話になっています」アルトゥーラの整った眉が、カイトの口にした「エルヴァ」という名にピクリと反応する。
「残念ながら、エルヴァを父だと思ったことはありません」
「そうですか……じゃあ、アルトゥーラ卿と俺は似た者同士かもしれませんね。俺も母親の再婚相手を父親とは認識できなかったので」自分の身の上を明かして微苦笑を浮かべるカイトを見たアルトゥーラは、微かに驚く様子をみせてから表情をわずかにやわらげた。
「カイト卿のご到着に際し、ロザリオ魔道士団を代表して歓迎の挨拶に伺いました、が、カイト卿と語らいたくなりました」
「ありがとうございます。それは嬉しいです。俺もアルトゥーラ卿のお話を聞きたいです」 「本日は雑務が立て込んでいるので、残念ですがここでおいとまいたします。お疲れのところ時間をいただき、ありがとうございました。明後日の聖皇陛下への謁見と、その後の祝賀晩餐会にはわたしも参列します。おりいった話はまたその折りにでも」 「はい、是非。楽しみにしてます」 「では、これにて失礼いたします」アルトゥーラは軽く会釈すると、くるりと身体を右に回してロビーを出て行った。
「末恐ろしい十六歳ですね……」
ホテルから出るアルトゥーラの背中を見送ったステラが、ぽつりと感想を漏らした。
「ですね」
ステラの感想にカイトが短く同意すると、セリカも自分の感想を付け加えるように口を開いた。
「容姿も十六歳には見えませんね。垣間見える繊細さだけは、思春期特有の空気をわずかに残してはいますが」
セリカの感想にうなずいたカイトは、アルトゥーラにとってのエルヴァという存在を思った。
「どうやら、アルトゥーラ卿にとってのエルヴァ卿は「いい父親」ではないようですね。俺にとっては「いい師匠」なんですが……同じ家で生活してても俺には父親と思えなかった母の再婚相手も、妹にとっては「いい父親」だったんだろうし。父親って角度によって変わるもんなんでしょうか……?」
このテルスという異世界にいるはずの実の父親と対面したときに自分は何を思うのか。そんな疑問がカイトの言葉を疑問形で終わらせた。
「まあ、アルトゥーラ卿にとっては、まったく帰国しようともしないエルヴァ卿を父親と思えってのは酷な話かもしれませんね」
カイトの心境を察して敢えて軽い口調を選んだセリカに対して、ステラが「まあ、それもあるかしらね」と苦笑を返した。
「それも? 他にもありますか?」
ステラの含んだ物言いにカイトが小首を傾げてみせると、カイトと視線を合わせたステラは、
「エルヴァ卿は、こと女性に関して奔放に過ぎます」
とバッサリ斬り捨てるように言い切った。
「世界最強の偉大な魔道士にして女性にはだらしない父親ってわけですか……思春期の女子からすれば嫌悪感を持つなって言うのは無理な注文かもしれませんね……」
カイトの感想は「父である前に男」なエルヴァと「男である父を嫌悪する娘」なアルトゥーラという親子に対して等しい同情を含むものになった。
明後日の昼過ぎ。 カイトとその護衛役であるセリカとステラ、事務方として随行するスペイドの四人は聖皇の宮殿へと向かう馬車に乗り込んだ。 聖皇の宮殿はカイトたちが滞在するホテルのある高台よりも少し高い丘陵にあり、テルスで最大級の教会建築であるサン・フィデス大聖堂と隣接していた。 快晴ということもあって世界的に名所として知られるサン・フィデス大聖堂は多くの巡礼者や観光客でごった返していた。 大聖堂の賑わいとは対照的に、隣接する聖皇の宮殿は静寂に包まれていた。 宮殿の車寄せに乗り入れた馬車からカイトたちが降りると、緋色の祭服を着た聖皇国の枢機卿が出迎えた。 枢機卿に先導されてカイトたちは宮殿の奥に進んだ。 謁見の間の細長く四メートルほどの高さがある扉の前に到着すると、スペイドと枢機卿は扉の前で待機した。 白で統一された天井の高い謁見の間には、アルトゥーラと長身の女性の二人だけが待機いた。 長身の女性は赤銅色の長い髪を結い上げており、アルトゥーラと同じロザリオ魔道士団の軍服を着ていた。「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」 長身の女性がやわらかく響く声でカイトに呼び掛けた。 カイトが女性の声に従って謁見の間の奥へと足を進めると、長身の女性はカイトに向かって深く頭を下げた。 頭を下げて応じたカイトに、顔を上げた長身の女性は柔和に微笑んでみせた。「ロザリオ魔道士団の次席を預かる、クーリア・マクラーレンと申します。貴国でお世話になっているエルヴァの妻です」 やわらかな声と気品を併せ持つクーリアに対面したカイトは、アルトゥーラの母親とは思えない若さを保つクーリアの容姿に驚いたが、それを顔には出さないように努めた。「トワゾンドール魔道士団の首席魔道士を務める、カイト・アナンと申します」「聖皇陛下は直にまいります。少々お待ちください」 微笑みを絶やさないクーリアは、艶やかで成熟した魅力を放つ女性だった。 カイトが「はい」と短く返事を返したタイミングで、純白のローブモンタントを着た少女が謁見の間に入ってきた。 小柄な少女はつかつかと一直線に奥へと進み、一段高くなっている最奥に設置された豪奢で大きな椅子にちょこんと腰掛けた。「朕がフィデスである。遠路、大儀であった」 代替わりから数年ほどしか経っていない現在の聖皇は若い女性であるとは聞いてい
魔道士への位階の叙位と称号の授与に関する一切の事務を「聖皇から委任されている」という形をもって取り仕切るウァティカヌス聖皇国にあって、報道機関への対応を一任されているクーリアの「祝賀の主役であるカイト卿に疲れた状態で晩餐会に参席いただくのは申し訳ない」という配慮から、新聞社を始めとする報道機関の取材を回避できたカイトは、一旦ホテルへ戻って一息つく余裕を得た。 カイトとその護衛役であるセリカとステラ、事務方として随行する公使のスペイドが連れ立って宿泊するホテルへ戻ると、ホテルのロビーにカイトの戻りを待つ女性魔道士の姿があった。 金髪のショートボブで鼻梁はすっきりと通り、切れ長の目には濃い碧眼が光る女性は、漆黒の地に群青の縁取りがなされたラブリュス魔道士団の軍服を身に纏っていた。 すらりとしたスリムな体型で背も高い女性魔道士は、ホテルのエントランスからロビーへとカイトたちが入るのを視認するやすっくと立ち上がり、カイトに向かって深々と頭を下げた。「お帰りを、お待ちしておりました」 女性魔道士の落ち着いた低い声がカイトの耳に届く。 セリカとステラが身構える気配を背後に感じながらも、カイトは緊張を隠しつつ女性魔道士へ歩み寄った。「どちら様でしょうか」 女性魔道士の前まで近寄って問い掛けるカイトに対し、女性魔道士は品を感じさせる微笑を浮かべながら答えた。「セナート帝国のラブリュス魔道士団で第六席次を預かるシルビア・ゲルツと申します」「はじめまして。カイト・アナンです。それで、シルビア卿……俺をお待ちいただいていたようですが、どういったご用向きでしょうか?」 敢えて肩書きは添えずにカイトが質問を返すと、すかさずシルビアはなめらかな口調で答えた。「本日はカイト卿の位階の叙位と称号の授与を言祝ぎたく、突然の失礼を押して参上いたしました」「そうですか……ご足労いただき、ありがとうございます」 ほんの二年前に矛を交えた敵国であり、国交が戻った今も最も警戒すべき大陸の覇権国家セナート帝国。戦場においてはその大国の全権代理人となる筆頭魔道士団の第六席次が、急に目の前に現れたことへの警戒は解かずに、カイトは努めて穏便な姿勢で応じた。 隠しきれない緊張が顔に出ているカイトとは対照的に、落ち着き払った面持ちのシルビアは、カイトに向かって軽くうなずいてから自身の傍ら
その晩に催されたカイトの叙位と授与を祝賀する晩餐会の席で、カイトとアルトゥーラは約束した通りにお互いの身の上話に花を咲かせた。 当初の予定通りカイトたちはウァティカヌス聖皇国に一週間滞在した。 カイトは滞在中に、クーリアが選別した各国の新聞社に属する記者の数人と対面して取材に応じた。 太魔範士という称号への反響の大きさは、カイトの想定をはるかに越えるものだった。 各紙の紙面には『ミズガルズ王国の首席魔道士が二人目の太魔範士に』『聖魔道士にして太魔範士であるカイト卿が今後の世界情勢に与える影響とは』『覇王の次に新たな時代の旗手となるのは聖人か』といった見出しが踊った。 ミズガルズ王国への帰路も往路と同じく、白い髭がトレードマークのシルバラードが船長を務める大型の客船だった。 快晴に恵まれ真昼の陽射しを照り返す海面が眩しい、十一月としては暖かなスペツィア港には、カイトを見送るために足を運んだアルトゥーラの姿があった。「カイト卿。今回は短い滞在でしたが、また必ずお目にかかりましょう」 快活な笑みを浮かべるアルトゥーラが差し出した右手を、カイトは握り返して長めの握手を交わした。「はい。その日を楽しみにしてます」「なぜか、再会の日はそう遠くないような気がします。この国とミズガルズは遠いのに不思議ですが」「その予感が当たることを願うことにします」 カイトの言葉にアルトゥーラがくすりと笑う。「カイト卿からは下心みたいなものを感じないのも不思議です」「そうですか?」「ええ、わたしは自他共に認める男嫌いですが、カイト卿にはなぜか嫌悪を感じません」「そうですか。それは、ありがとうございます」「太魔範士であるカイト卿をこの世界は放ってはおかないでしょう。その一挙手一投足に注目が集まることになります。疲れたらウァティカヌスへいらしてください。小さい国ですがお連れしたい店はまだまだあります」「それは楽しみです。両手を手土産でいっぱいにして、また来ます」 ニカッと笑ったカイトが両手に荷物を持つジェスチャーを見せると、アルトゥーラは打ち解けた笑みを浮かべた。 カイトたちを乗せた客船はほぼ予定通りの航海を終えて、十一月二十五日の昼過ぎにミズガルズ王国の王都プログレに到着した。 王都の港には数日前からカイトを出迎えるために日参していたストーリアの姿があっ
セルシオに先導されて移動した執務室へと入室したカイトたち三人は、セルシオにすすめられるままソファへ腰掛けた。 重厚なデスクの上にあった一通の書簡をセルシオは手に取ると「セナート帝国からの招待状です」と言い添えてカイトに手渡した。「セナート帝国? 招待状、ですか……?」 オウム返しに仮想敵国の名を口にしながら、カイトは書簡に目を落とした。「カイト卿の聖魔道士および太魔範士、その授与を祝賀するセナート帝国主催の晩餐会への招待状です」 カイトは書簡の文面にざっと目を通した。「これは……赴かない訳にはいきませんね……」 顔を上げたカイトが感想を口にすると、セルシオは首肯を返した。「左様です。セナート帝国と我がミズガルズ王国は現在、正式に国交を回復しております。読んでいただいた通り、シーマ皇帝の署名が入った正式な招待状です。これは、断れません」「……それにしても、急ですね」「ええ、さすがと言うべきでしょうか……セナート帝国の動きは常に早く、その速度で大陸の覇権を手にするまで勢力を拡げた国です。併せて、新たな動きも確認しております。先月にはピャスト共和国と、そして今月に入ってはロムニア王国とセナート帝国は停戦協定を結んでおります。オルハン帝国とも水面下で交渉中なのは確実でしょう。近く、西方戦線の緊張が一旦とはいえ解ける形となります」「それは……ミズガルズにとって吉報なんでしょうか……」 カイトの不安を隠さない問いに対し、セルシオは一呼吸置いてから答えた。「実際の距離も形成されてからの経過も長い西方戦線に初めてとなる停戦の動き、となれば次に緊張を強いられるのは、南のヒンドゥスターン帝国。そして、東南エイジアに勢力を伸ばしたブリタンニアの統治領となるでしょう……今は見守るしかありません。現在の情勢下にあってミズガルズ王国としては、静観の一手しか打ちようがありません」「そうですね……では、俺は招待に応じてセナートに赴くとします」「はい。お願いいたします」 決意を口にしたカイトへ軽く頭を下げたセルシオが視線をセリカとステラへ移す。「セリカ卿、ステラ卿。引き続きセナート帝国へ赴くカイト卿の護衛の任を引き受けていただきたい」「承知しました」 セリカが即答すると、ステラは質問を返した。「日程はどうなりますか」「招待状に添えられたもう一通の書簡によ
ウァティカヌス聖皇国で太魔範士の称号を授与されたカイトが、ミズガルズ王国へと帰国した二日後の水曜日。 師走を目の前にする十一月二十七日の昼過ぎ、王都プログレの港にセナート帝国の威光を示すように黒光りする装甲板で固められた大型汽船が入港した。 乾いた北風が冬の匂いを運ぶ中、シルビアがミズガルズ王国の地に降り立つ。 年末の賑やかな港にあっても、シルビアが纏う漆黒のラブリュス魔道士団の軍服は異様な迫力を有しており衆目を集めた。 忌避を含んだ視線を集めるシルビアには、人々の視線を気にする様子はまるで無かった。 シルビアを出迎えるために港へと赴いたのは、アルテッツァとセリカの二人だった。 隠せない警戒が表情に垣間見えるセリカとは対照的に、シルビアとアルテッツァは微笑を浮かべて対面した。「お待ちしておりました。遠路のお務め、誠にお疲れ様です」 朗らかな微笑を崩さずに右手を差し出したアルテッツァに対して、シルビアも余裕の笑みを浮かべたまま握手に応じた。「これはアルテッツァ卿。高名な卿に、わざわざ出迎えいただくとは光栄です」 初対面でも当然のように顔と名前が一致するだけでなく余裕を持って対応をするシルビアに対し、アルテッツァは警戒を強めたが表情に出すようなことはなかった。「滞在中の用向きは、遠慮なく私に仰ってください」「それは恐れ入ります。明後日には出立する身ですが、アルテッツァ卿のご厚意に甘えて、お世話になります」「急ぎの船旅でお疲れでしょう。ホテルへご案内いたします」「ありがとうございます」 微笑を浮かべながらも一切の隙がないシルビアの所作は、魔道士としての実力を暗に示すものだった。 それは並んで前を行くシルビアとアルテッツァの後に続いて歩くセリカにとっては、屈辱的な実力の差を痛感させるものだった。 シルビアはアルテッツァと同等の魔教士の称号を持ち、自分はその一つ下の称号となる魔錬士であるという事実を前にしたセリカは、否応なく襲ってくる劣等感を払いきれなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ シルビアがミズガルズ王国へ到着した頃、カイトは自室で次の行き先となるセナート帝国行きに向けた旅の支度をしていた。「お帰りになったばかりですのに……」 カイトの荷造りを手伝うストーリアが、何度目かになる言葉を口にする。「だよね」 カイトも何度目かになる
その日の夕刻にはシルビアを歓迎するという趣旨で少人数に限った晩餐の席が、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオが自ら手配して設けられた。 王族や御三家と呼ばれる有力な貴族、国内外の流通を掌握する大商人などを顧客に持つミズガルズ王国内でも指折りの高級レストランが晩餐の場となった。 総座席数が百五十を越える規模でもミズガルズ王国内屈指のレストランにあって、限られた上得意のみが通される最奥の大きな個室が会場となった晩餐には主催のセルシオと主賓であるシルビアの他に、シルビアの案内役を自ら買って出たアルテッツァとパートナーであるセリカ、セルシオの計らいで招かれたステラ、そしてセナート帝国が主催する祝賀会への案内役としてミズガルズ王国を訪れたシルビアにとっての主たる対象となる首席魔道であるカイトが出席した。 シルビアを歓迎する短い挨拶を述べたセルシオが乾杯の音頭を取り、六人だけが参席する静かな晩餐は始まった。 微かに張りつめた空気の中にあっても、シルビアは余裕を感じさせる微笑みを絶やさなかった。 微笑を操るシルビアの様子に触れたカイトは、覇権国家の代理人としての自覚と自信をシルビアから感じ取った。 三杯目となる赤ワインが注がれたワイングラスを傾けてから、音を立てずにワイングラスをテーブルに置いたシルビアが口を開いた。「良い機会かと思いますので、帝都での祝賀会への招待に応じてくださったゲストについて手短にお伝えしておきましょう」 提案する口調で口にしたシルビアの言葉に対し、真っ先に反応したのはセルシオだった。「それは、ぜひ拝聴したく思います」 セルシオが短く促すのに応じて、シルビアはゆったりとした所作でうなずいてみせてから、カイトを主賓とする祝賀会に参列する魔道士の名を挙げ始めた。「此度の祝賀会に際して、王侯貴族はもとより政治家や資産家といった魔道士以外の有力者は一人も招待しておりません。魔道士のみを招待した祝賀会の席となります。ブリタンニア連合王国メーソンリー魔道士団の首席魔道士であられるヴァルキュリャ・ニューウェイ卿。ゲルマニア帝国アイギス魔道士団の首席魔道士であられるインテンサ・グンペルト卿。アメリクス合衆国ワキンヤン魔道士団の首席魔道士であられるトゥアタラ・シェルビー卿。ビタリ王国トリアイナ魔道士団の首席魔道士であられるウアイラ・ディナスティア卿。ガ
祝賀晩餐会を主催するセナート帝国から主賓であるカイトの案内役としてミズガルズ王国を訪れたシルビアの滞在は、当初の予定通り二泊三日の短さで終わり、十一月二十九日の正午にはカイトとその護衛役を務めるセリカとステラ、そして案内役であるシルビアを乗せたセナート帝国籍の黒光りする汽船は、プログレの港からヴォストークへ向けて出航した。 客船よりも軍艦に近い装甲板で固められた汽船は、セナート帝国が覇権を握った大陸とミズガルズ王国の領土として国を形作る列島との間にある縁海を予定通りに就航し、十一月三十一日の昼過ぎにはヴォストークの港へと入港した。 港湾都市であるヴォストークは、大陸の東端までを領土としたセナート帝国にとっての「極東の玄関口」となったことで急速に発展した都市だった。 地形に恵まれた歴史のある良港と、セナート帝国がその威信をかけて敷設した世界初となる大陸横断鉄道の「東方の始発駅」を擁する交通の要衝であるヴォストークの街は、足早に行き交う人々の活気に満ちていた。 セナート帝国というミズガルズ王国にとって最も警戒すべき仮想敵国でありながら最大の交易国でもある国に降り立ったカイトは「この大陸に父さんがいるのか」という感慨を覚えながら街並みを眺めた。 師走を前にしたヴォストークの街は、これまでにカイトが見た王都プログレやウァティカヌス聖皇国といった異世界の街よりも密度の高い賑わいをみせていた。「活気のある街ですね」 カイトが素直な感想を口にすると、街を案内するシルビアは微笑を浮かべて答えた。「このヴォストークは積極的に開発を進めるセナート帝国の中でも、勢いのある街の代表格です。お気に召しましたか?」「ええ、寒いですが、それに負けない熱気を感じます」 カイトの感想を聞いたシルビアは満更でもないといった表情を隠さなかった。 ヴォストークの中心地となっている大陸横断鉄道の駅前にあるホテルで一泊したカイトら一行は、朝の内にハルバ行きの汽車に乗り込んだ。 異世界テルスでは最新の移動手段である蒸気機関車は、特有の音と匂いを発しながら力強く疾走した。 大陸を疾走する車窓からの眺めは、カイトにとって旅の高揚感を伴うものだった。 夜半には目的地であるハルバに到着したカイトら一行は、駅から最寄りのホテルに宿泊すると、翌朝にはチタ行きの汽車に乗り込んだ。 カイトが想
カイトはミズガルズ王国を出立する前に、祝賀晩餐会のゲストとして招かれた首席魔道士たちの情報は頭に入れていた。 セルシオが自ら用意してカイトに渡した資料には、首席魔道士たちの顔が確認できる写真も添えられていたが、実際に対面したトゥアタラの印象は前もって写真で確認した時に感じた印象とは大きく違うとカイトは思った。 現時点で世界に二十名しか確認されていない魔範士。その二十人目として昨年の冬にワキンヤン魔道士団の第四席次に就任したヴェノム・ヘネシーの就任式典での集合写真に写っていたトゥアタラを見た際には、如何にもエリート軍人らしい威圧的な顔付きの二十四歳だとカイトは感じていた。「これは、トゥアタラ卿……!」 カイトは迷ったが「ここは素直に驚いたほうが自然だ」と判断してトゥアタラに声をかけた。 トゥアタラはカイトの前に立つと右手を差し出した。スムーズで壁を感じさせないフランクな動作だった。 百九十五センチという規格外な高身長でありながら虚勢を張る必要のない強者としてのエルヴァが、高圧的な態度を見せることがないのに似ているとカイトは感じた。「トワゾンドール魔道士団のカイト・アナンです。まさか三英傑のトゥアタラ卿とこんな場所でお目にかかれるとは思いませんでした」 カイトが握手に応じると、トゥアタラは大きく骨張った右手を軽くシェイクさせながら応じた。「いやあ、お会いできて良かった。この大陸に来てからというもの、まあ、退屈してたところでしてね」 屈託のない笑みを浮かべてみせるトゥアタラは、髪型を気にする様子の無い無造作な金髪に、青みがかった灰色の瞳とうっすらと伸びた無精髭とが相まって、所作と外見とで相手に緊張を与えない術を身に着けていた。「退屈、ですか……今はなぜヴァトカに?」「ちょっと早めに来てしまったんですがね、帝都に行ってしまえば高官なり貴族なりの歓待を断れないでしょう。迎賓館だの超が付く高級ホテルだのは、どうも性に合わないんですよ」 内心を打ち明けたようにも、この場で思い付いた口実にも聞こえる理由を答えてトゥアタラは笑った。片眉が下がった独特な笑い方だった。 好感を与える演技が上手い男ということだけは理解したカイトは質問を続けてみた。「俺たちが、いま到着すると知っていたんですか?」「ええ、うちの諜報は無駄に優秀でしてね」 隠さずに自分の背
刹那にも思える短い時間で四つの命を奪い、次の刹那には自分の生殺与奪を握ったベルゼブブが消えたことで、クラリティは浅くなっていた呼吸を整えるように短く息を吐いた。 無邪気だからこそ残酷な子供の笑みを浮かべて目の前に立つ可憐な少女が、十六歳にしてセナート帝国で四方を預かる「四人の元帥」の一人として南方を任されている天才魔道士でありながら、戦闘狂として知られることで「狂乱の魔範士」とも呼ばれる存在だと、頭では理解できてもクラリティの感情は理解に追い付いてくれることはなかった。 「一つだけ……お伺いしても、よろしいですか?」 緊張で喉が詰まりながらも問い掛けを口にしたクラリティに対し、アリアは屈託のない笑みを向けて応じた。「うん。別に一つじゃなくてもいいよ? なに?」「今回の侵攻、その主な目的は、ヒンドゥスターンの併合では無いのですか?」「そうだよ。まあ、表向きはソレ? ってことになってるけど。ここに即席の仲良しごっこ同盟をおびき寄せるの。今回はそれがメインディッシュになるんだよね」「軍事行動そのものが目的、だとおっしゃるのですか?」「その把握で合ってるよ。まあ、卿は見物してればいいからさ。滅多に観れないショーが拝めると思うよ?」「……ショー、ですか?」「そう。遊びみたいなもんだよ。ボクにとって、きっと陛下にとっても、ね」 軽い口調でポンポンと答えるアリアの言葉は、クラリティにとってどこか異界に棲む妖怪の言葉のように聞こえた。 真相を隠そうとしているのではなく、隠さずに語る真相そのものが、自分の理解できる範疇を越えているんだろうとクラリティは感じた。「アリア卿と、皇帝陛下にとっての、遊び……には、この侵攻自体が含まれる、という意味ですか?」「陛下が遊びって言うのを直接、聞いたことはないけど。ちょっと考えれば分かるよ。本気で攻め込んじゃえばスグに飲み込めたロムニアとかピャストを残しておくために敢えて膠着させてた西方戦線とか、落とすならもう絶好のタイミングだった二年前のミズガルズ、とかさ? どう考えても面白くなるタイミングまで待ってるでしょ。陛下って」 理解できる範疇を越えていると感じた自分の直感は当たってしまったんだと、クラリティは諦観にも似た落ち着きを取り戻した。「アリア卿にとっても、戦争は「遊び」なのですか?」「戦争そのものは、遊び
ヒンドゥスターン王国内では精鋭とされる魔錬士として、十二名から成る筆頭魔道士団の席次に就いていたフリードとビートを、圧倒的な力量差であっさりと処理したアリアは顔色ひとつ変えることなく、ベルゼブブを召喚したままでツカツカと街の中心部に向かって歩き続けた。 アリアの軽快な足取りに合わせて、リラックスした表情を浮かべるヴァイオレットとシルビア、鋭い視線で周囲を警戒する第十四席のギャランが後に続いた。 ベンガラに暮らす住民たちは既に建物の中に引き籠もっており、無人となった街には警鐘だけが鳴り響いていた。 アリアは街の中心に位置する、大きな噴水のある広場で足を止めた。「さて、と。ここで待とっか。人の姿は見えないけど警鐘は鳴ってることだし、あっちから来てくれるでしょ。暑くてもう、歩く気しないしさ」 アリアが軽い口調のまま待機を指示した数分後。 噴水のある広場からほど近いベンガラの役場に詰めていた、メーソンリー魔道士団の軍服を着た壮年の魔道士が二人と、アパラージタ魔道士団の軍服を着た若い女性魔道士が広場に駆けつけた。 緊迫した様子で近付いてくる三人の姿を見たアリアは待ちくたびれた口調で「やっと来た」と呟きながら、呑気なあくびを漏らしてみせた。 背恰好の似た壮年である二人の魔道士は、アリアが召喚しているベルゼブブを目視すると顔を見合わせ、うなずき合うと同時に揃って召喚獣の名を喚んだ。「「タロース!」」 二人の重なった詠唱に応じて出現した、二つの直径二メートルほどで緑色に発光する魔法陣から、全身が青銅色の装甲で覆われた身長三メートルほどの人型をした二体のタロースが姿を現わす。 二体のタロースを見たアリアは、退屈であることを隠さず口にした。「ベルゼブブに対して耐刃性能に優れるタロースを選んだ、ってことなんだろうけど……まあ、土の属性魔法を使う魔道士として間違ってないだけで、平凡すぎるよね」 壮年の魔道士の一人が、泰然とした様子のアリアに奇妙な違和感を覚えながらも声を張り上げた。「ラブリュス魔道士団が、ベンガラの地に何用だ!」 切迫が声に現れている壮年の魔道士とは対照的に、アリアがくつろいだ口調のまま答える。「えーと、アルナージ卿かな? それともカマルグ卿? まあ、どっちでもいいんだけど。セナート帝国はね、今朝、ヒンドゥスターン王国に宣戦布告したんだよ
「宣戦布告も済ませた戦争で、この戦い方が国際法ギリギリなのは承知してるけど。面白くなさそうだったし、まあ、お互い最低限の口上は済ませてたし、ってことで。遅いんだもん。召喚前に「ちくしょう」とか言ってるようじゃ問題外だね」 アリアは吐き捨てるように呟くと、ベルゼブブを召喚したまま軽い足取りで歩き出した。 ラブリュス魔道士団に籍を置く三名が無言でアリアの後に続く。 けたたましい警鐘が鳴り響く中、アリアがベンガラの中心区画に足を踏み入れたタイミングで「クッレレ・ウェンティー!」と風の属性で基本となる魔法を詠唱する少年の声が、アリアたちの耳に届いた。 自身の速度を強化するクッレレ・ウェンティーによって高速で駆ける少年が、アリアに向かって一直線に接近する。 アパラージタ魔道士団の軍服を身に纏う少年の、左肩でたなびくマントに標されたナンバーはⅫだった。「シーカ・ウェンティー!」 少年は駆ける足を止めること無く詠唱を済ませ、風の力で成形された短剣を右手に現出させる。「ラーミナ・ウェンティー!」 少年は立て続けに風の属性魔法を詠唱するのに合わせて、アリアを指すように左手を突き出した。 風の力を刃状に成形して射出するラーミナ・ウェンティーを行使した少年の、左手から撃ち出された風の刃が回転しながら高速でアリアに迫る。 アリアは何ら反応することなく、歩く足を止めることさえしなかった。 平然と歩き続けるアリアに代わって動いたのはベルゼブブだった。 互いに近付いているアリアと少年との間に瞬間的に割って入ったベルゼブブは、脚の先に発生させた風の刃で少年が放った風の刃を難無く叩き落とした。「チッ……!」 舌打ちした少年は、右手に握っているシーカ・ウェンティーによって現出させた風の短剣を投擲した。 ベルゼブブが短剣を叩き落とす隙に、少年がアリアとベルゼブブから距離を取る。「うん。まあ、なかなかと言っていい動きかな? キミ、名前は?」 アリアが戦闘の緊張を欠片も含まない口調で、少年の魔道士に声をかけた。 少年はベルゼブブから目を離さずに答えた。「ビート……アパラージタ魔道士団、第十二席次のビート・ハセックだ!」「ふーん。ボクはアリアだよ。で、ビート卿。称号はお持ち?」「……魔錬士、だ」 ビートがベルゼブブを警戒しながらも素直に答える。「そっかあ……そ
海洋帝国ブリタンニアを始めとする西方の列強四国において国威の象徴であり国防の要でもある四名の首席魔道士たちと席を並べ、東方の島国であるミズガルズ王国の立ち位置を列強各国と肩を並べる位置まで引き上げようと、カイトが慣れない政治的な立ち回りを演じる舞台となったウァティカヌス聖皇国で、五国間の軍事同盟に関する同意を首席魔道士同士で確認した会談から六日後となる三月二十四日。 週が明けた月曜日の朝に、セナート帝国はヒンドゥスターン王国に対して宣戦布告した。 早朝に布告された宣戦と同時に、セナート帝国の筆頭魔道士団であるラブリュス魔道士団の魔道士六名が動いた。 セナート帝国で南方を担当する第六魔道士団の魔道士十二名と、支援部隊として帯同する五十名の一般兵で編成された小隊を従えた、六名の魔道士を乗せた黒光りする装甲板に覆われた汽船は、ヒンドゥスターン王国の重要拠点となっているベンガラの南東に位置する港湾都市チッタゴンを強行突破した。 チッタゴンにはヒンドゥスターン王国及び、ヒンドゥスターンを間接統治するブリタンニア連合王国の筆頭魔道士団に属する魔道士は配備されておらず、魔道士を相手に抵抗する術を持たないチッタゴンの防衛に当たっていた一般の兵士たちは、六名の内の一人である第十八席次のシルエイティの召喚したヒュドラが先導する汽船に対して交戦の意思すら見せなかった。 セナート帝国の汽船は難無く河川を北上し、昼前にはヒンドゥスターン王国とセナート帝国が双方ともに重要視する都市であるベンガラの河川港へと入港した。 河川港に降り立った魔道士たちのマントに標されたナンバーは、Ⅵ、Ⅷ、Ⅸ、ⅩⅣ、XVIII、XIX。 桟橋へと降り立つなり、第九席次に就き南方元帥と称されるアリアがぼやいた。「もうさ、すでに帰りたくなってるんだけどボク。暑すぎるよ。せめてさあ……このジメジメだけでも、どうにかならないかな。湿度高すぎでしょ、まだ三月だよ?」 開けっぴろげにぼやくアリアに対し、第八席次でありながらアリアの副官を兼ね、常に行動を共にしているヴァイオレットが宥めるように声をかけた。「本当に暑いね。夏仕様でも真っ黒なままの軍服で来るような土地じゃない。さっさとベンガラを落として涼むしかないよ」 ヴァイオレットへ無邪気にもみえる笑みを向けて「うん。そうしよ」とうなずいたアリアは、続けて
クーリアが前祝いと言い表した酒宴は、港町でもあるウァティカヌス聖皇国の玄関口として機能するスペツィア港から程近い、庶民的な酒場を貸し切って行われた。 ブリタンニア連合王国を始めとする西方の列強四国と、東方で独立を維持し続けた魔法国家ミズガルズ王国が軍事同盟を結ぶという事態は、既に類を見ない大陸覇権国家として海洋帝国ブリタンニアに比肩する国力を擁していながら、ロムニア王国を併合し更なる勢力拡大の動きをみせたセナート帝国に対抗する大勢力が形成されることを意味する。 世界の対立軸と成り得る軍事同盟について、各国の国防を担う首席魔道士が同意に至った会談の直後という重大な局面とは無縁の、軽い談笑を交わすシロンとクーリアの明るい笑い声が酒宴の空気を担っていた。 ともに酒豪であるシロンとクーリアが、ざっくばらんに語らいながら豪快に杯を重ね続けるのとは対照的に、インテンサとドゥカティは静かに杯を酌み交わしていた。 カイトはヴァルキュリャと差し向かってワインを傾けた。「ブリタンニアにとって今一番の気掛りは、やっぱりヒンドゥスターン王国、ということになるんですか?」 カイトの素直な問いに対し、ヴァルキュリャは微笑を浮かべたまま答えた。「そうですね。ヒンドゥスターンはセナート帝国が掌握したアフラシア大陸に残った最後のくさびと言ってもいい国ですから。セナート帝国との国境がヒマアーラヤ山脈によって護られたっていう要因が大きかったんですけど」「それでもセナート帝国が攻めるとしたら、どのルートになりますか?」「地続きに攻め込まれるとすれば北東のベンガラ、海から攻めるなら王都デリイへの最短ルートとなるドーラヴィーラが考えられます。なので、ベンガラにはメーソンリーの魔道士二名と、ヒンドゥスターンの筆頭魔道士団であるアパラージタ魔道士団の魔道士が数名、常駐してます」「東南エイジアは、ほぼブリタンニア領でしたよね」「ええ、実を言えば我が国は、そちらの方こそを警戒しているんですよ。その証拠にセナート帝国との国境があるマライ半島には、メーソンリーから四名の魔道士を派遣しています」「四名はすごいですね」 素直に驚いてみせるカイトの反応を見て、ヴァルキュリャが微苦笑を浮かべる。「東南エイジアには他にもメーソンリーから三名の魔道士を派遣しています。それに加えて第七と第八魔道士団を合
三月十八日の午前中に、シロンを乗せた蒸気自動車は検問の無いウァティカヌス聖皇国の国境を越えた。 ガリア共和国の筆頭魔道士団であるシャノワール魔道士団の首席魔道士として、国威を担う要職に就くシロンの聖皇国行きに随行した魔道士は一名のみだった。 シロンと揃いの山吹色の地に黒の糸で刺繍が施されたシャノワール魔道士団の軍服を着た、がっしりとした大柄の男性魔道士は小振りな車窓から望む聖皇国の景色を無言で眺め続けていた。黒猫のエンブレムが刺繍された左胸に標されたナンバーはⅫ。 充実した三十六歳の精悍な顔つきをした第十二席次の男性魔道士と書類を確認するシロンは、移動の退屈をたわい無い会話でつなぐでもなく共に無言だったが、互いに静かな時間を好む性分であることを知る者同士での移動はシロンにとっては快適なものだった。「周到を良しとするシロン卿でも、今回ばかりは懸念が残りますか?」 男性魔道士が落ち着いた口調でシロンへの問いを口にした。 好みに合う艶のあるバリトンの声に、シロンは微かな笑みを浮かべて応じた。「まあ普通に考えれば、懸念だらけですよね。革命後の共和制やら帝政やらを生き延びた貴族が集まれば「復讐」の対象として口上にあげるゲルマニアと、利害の一致があるときだけ互いを利用しあうようになったブリタンニアを同時に口説くんですから。こちらも誠意を示す必要はある。そのせいでゼンヴォ卿、孤高の切り札である卿に無理なお願いをする形になってしまいましたしね」 シロンの口調はその言葉に反して、楽観的な響きを含むものだった。 「孤高の切り札、ときましたか。俺の境遇もシロン卿にかかれば格好が付いてしまう。外人として扱いづらい俺でも、卿の役に立てるんなら本望ですよ」「ありがとうございます」 シロンの微笑みに満足したゼンヴォは車窓へと視線を戻した。 ゼンヴォに合わせて、再び膝に載せた書面へ目を落としたシロンは「小心を飼い馴らせているか」と胸の内で自問した。 世界に二十人しか確認されていない魔範士として祖国のために働き続け、いつしか「魔道士の模範」などと称されるようになっても、英魔範士や太魔範士が居並ぶ列強の首席魔道士の中で魔範士である自分に「失策」は許されない。 周到を良しとするのではなく、周到でなければ動けない。自分が抱えるこの小心は「武器になる」と言い聞かせてきたシロ
セナート帝国によるロムニア王国の併合を受け、ビタリ王国へ魔道士を派遣するブリタンニア連合王国、ゲルマニア帝国、ミズガルズ王国の三国とビタリ王国の四国間による軍事同盟の締結に向けて動くことを、首席魔道士であるカイト、ヴァルキュリャ、インテンサが確認した会談の翌日。 三月十六日の昼前に、レビンとステラが予定通りに聖皇国へと到着した。 カイトは一人で船着き場まで赴き、呼び寄せる形となった二人を出迎えた。 降り立ったレビンの黒髪とステラの亜麻色の髪が、近付く春のやわらかさを含み始めた日差しを浴びて輝いていた。 カイトは純白のトワゾンドール魔道士団の軍服を身に纏う二人のもとへ駆け寄った。「遠路、お疲れ様です」 カイトがレビンに向けて右手を差し出すと、レビンは微かに硬い表情のまま「出迎え、感謝します」とだけ答えて握手に応じた。 レビンと短い握手を交わしたカイトは、続けてステラに向けて右手を差し出した。「長い船旅でお疲れでしょう。ホテルに案内します」「ありがとうございます。カイト卿、少し痩せましたか?」 ステラはやわらかな笑みを浮かべながら握手に応じた。 カイトは港からほど近いホテルへ二人を案内すると、その流れの中で昼食に二人を誘った。 二人の荷物を船の乗組員が客室へと運び込むのを見届けた三人は、連れ立ってホテルの近くにあるレストランへと移動した。 一通りの料理を注文し、白ワインでの乾杯を済ませると、カイトがレビンとステラに向けて頭を下げてみせた。「お二人には、急な赴任を引き受けていただきました。そのお礼を、まず先に伝えたかったんです」 頭を下げながら礼を述べるカイトに対し、レビンが静かに応じる。「礼には及びません。任務ですから」 レビンが端的に答えると、ステラがカイトへの質問を口にした。「カイト卿、わたしたちの赴任先は、もう決まっているんですか?」「はい。ビタリ王国の王都、ロームルスになります」「ロームルスには他の筆頭魔道士団の魔道士も?」「はい。すでにブリタンニアのメーソンリー魔道士団から派遣された二名が駐屯しています」 カイトの答えを聞いたステラとレビンが短く顔を見合わせる。 向き直ってカイトへの疑問を口にしたのはレビンだった。「カイト卿。アルテッツァ卿とセリカ卿、そしてピリカ卿は、これからどうなさるご予定ですか?」「当
セナート帝国によるロムニア王国への侵攻を指揮したのは、ラブリュス魔道士団の第三席次として長く西方戦線を預かり、西方元帥として知られるフーガだった。 他の筆頭魔道士団とは異なり、第三席次をエースナンバーとして運用しないラブリュス魔道士団におけるフーガの地位は大元帥に相当し、北方元帥のセドリック、東方元帥のティーダ、南方元帥のアリアから成る四元帥の中で一段上位にあり、皇帝シーマの右腕として内政と諜報を掌握する第二席次のグロリアに同格とされていた。 急速に勢力を拡大したセナート帝国にあって、最も軍功を挙げた魔道士であるフーガが率いるラブリュス魔道士団に籍を置く七名の魔道士と、西方戦線に配備された第三魔道士団の魔道士、魔道士団の後方支援に徹する二千人規模の一般兵で編成された部隊は、攻め落とした都市に留まることなく進撃を続け、三月九日にはロムニア王国の王都を陥落させたる。 筆頭魔道士団を失ったロムニア王国の国王は同日、無条件での降伏を自ら申し出た。 新聞各紙は『火の七日』という大見出しで、一つの国を短期間で飲み込んだセナート帝国の烈火の如き侵攻を報じた。 セナート帝国はロムニア王国の領土を手にしたことで、短い国境線ではあるもののゲルマニア帝国およびビタリ王国と国境を接することとなった。 さらに地中海に面する港も手中に収めたことで、地中海からオルハン帝国とビタリ王国、そしてガリア共和国へも直接繋がる海路を獲得するという戦果を得たフーガの戦勝スピーチが新聞各紙の紙面を飾った。「セナート帝国は国を征しても、文化を奪い民を辱めることはしない。その証人として民の生活が安らぎ、その顔に笑みが戻るまで、私はこの地に残る」 産業革命の流れに乗り遅れたことで列強に及ぶ国力を有するには至らなかったが、決して小国ではないロムニア王国への侵攻を一週間で完遂するという衝撃の報を受けて、ビタリ王国に滞在していたヴァルキュリャとインテンサ、そしてカイトの三国を代表する首席魔道士は、セナート帝国の次なる動きを警戒して本国への帰還を先延ばしせざるを得なかった。 ビタリ王国を再建するためのキーパーソンとなっていた首席魔道士である三名は、セナート帝国の動向に即応するためゲルマニア帝国とガリア共和国に近いウァティカヌス聖皇国へと移動し、到着した三月十五日には最初の会談を持った。 聖皇の宮殿で
産業革命や列強による植民地争奪といった地球の十九世紀末と酷似した時代背景を持ちながらも「魔法」が実際の力として実在し、その魔法を行使する「魔道士」が存在するという最大の違いによって、地球の同時期との相違が最も大きく表れることとなった軍隊の有り様。 列強とされる国家が数百万人、覇権国家に至っては一千万人をも超える軍人を擁していた大戦前夜の地球とは異なり、魔道士によって編成される魔道士団が軍の主体を担い、戦場において国家の意思を代行する全権代理人としての資格を有する魔道士で構成される筆頭魔道士団が国防の象徴であり本体として機能する異世界テルス。 筆頭魔道士団を失うという国体の維持そのものを揺るがす事態に直面したビタリ王国の要請に応える形で、ブリタンニア連合王国、ゲルマニア帝国、ミズガルズ王国の三国から筆頭魔道士団に籍を置く魔道士を派遣するという四国間の同盟へと繋がる協議が持たれた十一日後。 二月二十四日にウァティカヌス聖皇国の使者が、セナート帝国の帝都マスクヴァへと到着した。 聖皇国の使者は聖皇フィデスの意向として、首席魔道士であったウアイラ以下、筆頭魔道士団としてのトリアイナ魔道士団を構成していた七名全員の身柄引き渡しを要求したが、セナート帝国の皇帝シーマは要求を拒否。 その翌日には、ウアイラ以下七名をセナート帝国の筆頭魔道士団であるラブリュス魔道士団へと迎え入れ、新設した第二十四から第三十まで席次に就任したことを皇帝の署名入りで公表した。 世界情勢に大きな影響を及ぼす報は、最優先の速報として報道機関や外交使節によって瞬く間に伝わり、翌日の夕刻にはビタリ王国に滞在するカイトのもとにも届いた。 ヴァルキュリャと連れ立って宿泊しているホテルにほど近いバーで飲んでいたカイトに、その報せを持ってきたのはメーソンリー魔道士団の第六席次に就き、ヴァルキュリャにとっては貴重な友人でもあるエリーゼだった。「わたしって、お酒もからっきし弱いので、お先に失礼しますね……ごゆっくり」 穏やかな笑みで言い残すと、号外として発行される直前の記事を二人に手渡したエリーゼは早々に席を立った。 ヴァルキュリャは飲み干したワイングラスを置くと、ふうと短く吐息を漏らしてから口を開いた。「これでラブリュスは、我がメーソンリーを抜いて世界一の大所帯になりましたね」「聖皇国は引き下